友達に送ったメール
2006年4月25日なあ。
・・友達に感情的すぎるってきつめにいわれちゃった。
しかも年下に。
たしかに感情的だよな。
年もとって、経験して、客観的な視野を持てるようになってきたと思っていたのに。
その視野さえ自分の固定観念だったとしたらと思うと、自分は自分のことしか見えてないんだなって、自分の考え方でしか見えてないんだなって思うよ。
それに気づいたら落ち込んだ。
自分のことしか見えてないのは17のときも十分指摘されたはずだった。
4年経て直ってないんだ。
冷静、沈着、論理的。それがいいもので
感情的なものはすべてよくないものなのかな。
自分を否定されたようでくやしかった。
でも、自分でもわかる。
祖父も親も、感情いっぱいの人間だから、そうにはなるまいと気をつけていたときだったから。
自分の言葉すべてが感情なのかな。
感情を押し込めるとき、感情を伝えるとき、どっちにするか悩むよ。
意見を言い合うときは感情的になる。
相手が大切な存在であるほど感情的になる。
冷静に意見を言えるのは自分にとって利益も不利益もない人。
大切だからこそ、冷静に自分の意見をいわないでなんていられない。
自分が大人になっているようでなってなかったと思うと苦しい。
僕のすべてが感情的で精神的にようちなのかな。
でも、一つ思うことがある。
誰より頭がよくて、誰より口がうまくて、誰より天才な人間が
正統なことを言っていて論理的な文章で誰にも負けないトークをしていて
他人をもてあそんでいてもそれが優秀だと評価されることよりも、
馬鹿でも人に思いやりのあることができる人のほうがいいなって。
ようはどう生きたいかなんだって。
正統でも皮肉なことを言ってうならせようとしても、何もいわないでいればすむことだし、相手にしたくないなって思ったらしないでいればあおることもない話だしね。
こんなこと思っても、思った時点で感情的か。
思うって、感情なのかな。
好き嫌いは感情で、話す動機も気になったからという感情で、自分の意見を述べている時点でその人の固定観念の中の話になって、すべてが感情的なのかな。
そんなことになったら、客観という概念すら個人的な経験によって蓄積された記憶とそれによってできた考え方と自ら見出した解析ということになって、周りから見た平均的な視野ということじゃなくなる。
よく考えすぎっていわれるけど、こうでも考えないと自分のことがわからない気がして。
こうでも考えないと感情的になってしまう気がして。
感情的になると人は平和ではいられなくなる。
そもそも、日常から感情的なことって必要とされてないのかな。
平和に暮らすために感情をなくすっていう社会主義的な考え方もあるくらい。
でも生きている限り人は感情を持っているから、なくせない。
それでも生きているんだから、毎日感情があることを当たり前にしてすごせてることになる。
どんなときに感情的ではいけないのか。
そうやって絞って考えたほうがいいのかな。
なにより、生きてきたなかで、敵と思うものは嫌い、よくないと思うことは嫌い、好ましくないものも嫌いという言葉をつけてきたから、これから生きる人にとって、自分の価値観を提示し、嫌いなものを身に着けないでほしい、嫌いな人にならないでほしいということで、参考になればと思っていっていることなんだろう。
そう、思い出したけど、僕の自制のことばのひとつ。
自分が正義だと思うな。
そうだった。
自分が正義だと勘違いして自分の価値観を振りまいちゃいけない。
いつも満たされるとは思うな。
そうだった。
自分の意見を言うだけいって、自分だけ満たされようとなんかしちゃいけないんだ。
自分が納得がいかなくても、その居心地の悪さからあばれちゃだめなんだ。
忘れてた。
自分を考えるために大切にしていた言葉。
自分は正義でもなく、満たされているものでもなく、常に客観的に考えたいから。
客観的に考えるにはまだ足りないかもだけど、一度持った固定観念を何度も見直して考えられるようにしたい。
・・友達に感情的すぎるってきつめにいわれちゃった。
しかも年下に。
たしかに感情的だよな。
年もとって、経験して、客観的な視野を持てるようになってきたと思っていたのに。
その視野さえ自分の固定観念だったとしたらと思うと、自分は自分のことしか見えてないんだなって、自分の考え方でしか見えてないんだなって思うよ。
それに気づいたら落ち込んだ。
自分のことしか見えてないのは17のときも十分指摘されたはずだった。
4年経て直ってないんだ。
冷静、沈着、論理的。それがいいもので
感情的なものはすべてよくないものなのかな。
自分を否定されたようでくやしかった。
でも、自分でもわかる。
祖父も親も、感情いっぱいの人間だから、そうにはなるまいと気をつけていたときだったから。
自分の言葉すべてが感情なのかな。
感情を押し込めるとき、感情を伝えるとき、どっちにするか悩むよ。
意見を言い合うときは感情的になる。
相手が大切な存在であるほど感情的になる。
冷静に意見を言えるのは自分にとって利益も不利益もない人。
大切だからこそ、冷静に自分の意見をいわないでなんていられない。
自分が大人になっているようでなってなかったと思うと苦しい。
僕のすべてが感情的で精神的にようちなのかな。
でも、一つ思うことがある。
誰より頭がよくて、誰より口がうまくて、誰より天才な人間が
正統なことを言っていて論理的な文章で誰にも負けないトークをしていて
他人をもてあそんでいてもそれが優秀だと評価されることよりも、
馬鹿でも人に思いやりのあることができる人のほうがいいなって。
ようはどう生きたいかなんだって。
正統でも皮肉なことを言ってうならせようとしても、何もいわないでいればすむことだし、相手にしたくないなって思ったらしないでいればあおることもない話だしね。
こんなこと思っても、思った時点で感情的か。
思うって、感情なのかな。
好き嫌いは感情で、話す動機も気になったからという感情で、自分の意見を述べている時点でその人の固定観念の中の話になって、すべてが感情的なのかな。
そんなことになったら、客観という概念すら個人的な経験によって蓄積された記憶とそれによってできた考え方と自ら見出した解析ということになって、周りから見た平均的な視野ということじゃなくなる。
よく考えすぎっていわれるけど、こうでも考えないと自分のことがわからない気がして。
こうでも考えないと感情的になってしまう気がして。
感情的になると人は平和ではいられなくなる。
そもそも、日常から感情的なことって必要とされてないのかな。
平和に暮らすために感情をなくすっていう社会主義的な考え方もあるくらい。
でも生きている限り人は感情を持っているから、なくせない。
それでも生きているんだから、毎日感情があることを当たり前にしてすごせてることになる。
どんなときに感情的ではいけないのか。
そうやって絞って考えたほうがいいのかな。
なにより、生きてきたなかで、敵と思うものは嫌い、よくないと思うことは嫌い、好ましくないものも嫌いという言葉をつけてきたから、これから生きる人にとって、自分の価値観を提示し、嫌いなものを身に着けないでほしい、嫌いな人にならないでほしいということで、参考になればと思っていっていることなんだろう。
そう、思い出したけど、僕の自制のことばのひとつ。
自分が正義だと思うな。
そうだった。
自分が正義だと勘違いして自分の価値観を振りまいちゃいけない。
いつも満たされるとは思うな。
そうだった。
自分の意見を言うだけいって、自分だけ満たされようとなんかしちゃいけないんだ。
自分が納得がいかなくても、その居心地の悪さからあばれちゃだめなんだ。
忘れてた。
自分を考えるために大切にしていた言葉。
自分は正義でもなく、満たされているものでもなく、常に客観的に考えたいから。
客観的に考えるにはまだ足りないかもだけど、一度持った固定観念を何度も見直して考えられるようにしたい。
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