私の言いたいこと
2006年8月5日最低な日でした。
今日はスポーツジムにいってきました。
いつものえらそうなおじさんと、ちょっと年上のスタッフさんと長話をしました。
そのとき、またいわれてしまいました。
ニートかって。
おじさんに。
「何もしたくないわけじゃない、何かしてみたいことを見つけたい」ということに一定の理解を示してくれましたが、人は自分の人生のみを信じているもの、指南された職業は「自衛隊」。
そのおじさんがそうだったからです。
「アルバイトしなよ」という話題になって、スタッフさんが以前勤めていたのでいってくれた「スポーツヒマラヤ」。
そう、そのスタッフさんに先日も「スポーツジムに来る前はなにしてるの?」と聞かれて、少しあたふたしながら「家事全般」と苦笑いで答えた後でしたので、それならそのスタッフさんにアルバイトないか逆に聞こうと思っていた矢先でした。
そんなことがあって、少しストレスを感じながらも、「まあ所詮私はこんなことをいわれても言い返せない立場か・・とか、先日テレビで見たひきこもりの少年のドキュメントを思い出して、部屋から無理やり連れ出される少年を思い出して、あの子と同じレベルか・・そう思われていてもおかしくないか。」と自分の立場を客観視しては石を投げられても暴言をはかれても言い返せない立場だということを言い聞かせていました。
他人から見たら、私が「何もしたくないわけじゃない」ことも「ふつうの人間とは違う感覚を持っているからふつうに親しめない」ということも特に興味のあることではなく、働かない若者というひとくくりにまとめられてしまうんだなと、元気をなくしました。
こういうことって、自分に作り上げていた自信をなくしてしまいます。
学校であれ、会社であれ、アルバイトであれ、自分の居場所がある人間にとっては、それが自信であり、ゆるぎないプライドを作り上げています。
所属しているという価値観から、他社に平気で自分の意見をぶつけては、放った言葉に責任を持とうとしません。
私は自分の中から自信を持つしかありません。
何にも所属しない、依存していない状態なので、自分でエネルギーを発電するしかない。
話を戻しますが、そんな帰り際に、そのスタッフさんから「スポーツヒマラヤ」で起きた苦難のエピソードを聞かされました。
内容は、危険そうな男性に殺されるかと思うくらいの緊迫した接待をさせられたというもの。
最後は接待が評価されておひねりをもらって終わったらしいです。
しかし、そんなことがおきると聞かされて何も考えない私ではありません。
それが聞かない状態で起こったとしても、私は大丈夫ですが、前もって聞かされて、危険や恐怖があることを知った常態でその現場に赴く私ではありません。
人一倍、恐怖に対しての記憶の残りやすい私です。
その記憶は後になってからより強大な恐怖を私に与えてきます。
そんなことをわかりながら、その現場には行きたくないです。
スタッフさんは「そういう経験もしておきなよ」と笑いながらいっていました。
でも、みんなそういうこといいますよね。
自分が経験したことを他人にも勧める。
それが苦しいことで、それで自分を成長させた大人になるものだと勧める。
誰もが経験することで大人になるもの。
「誰もが?」そうじゃないですよね。
人には人の精神状態がある。
小さい子に怖い映画を見せてばかりいたら、そのことが頭から取れなくなる。
小さい子はまだ現実と架空の判断が難しい年頃だから当たり前ですが、それは小さい子だけではないんです。
努力すればいい結果が必ずあるから、だから今は楽しいことは禁欲して、ひたすら努力しようよ。
好きなことがないならなおさら、興味がなくても何かに努力しようよって。
人生は長いんだから、いろいろやってみようよって、みんな言う。
でも、どれも、ふつうの人に当てた言葉。
どれもそれなりの人に当てた言葉。
今を禁欲して未来のために努力ですか?
じゃあ今を生きる生きがいってなんですか?
努力は必ず報われるなんて誰がわかるんですか?
努力しているうちに夢や希望をなくしてしまったサラリーマンという中年世代はなんですか?
自分を正当化しようとして、努力を推進するその考え方はあなたを満足させるもの。
自分が成し遂げられなかったこと、本当にしたいことをできなかったことをひがんでそれが人間だと押し付けてる。
そして努力の集大成が家族?
それは・・中高年が作り上げた勝手な社会のでき方でしょう。
今しかできないことがある。
今だからできることがある。
努力していたら、禁欲のせいで好きだった女の子が別の男の元にいってしまった。
それは所詮そんな女だったんだ・・なんて男の泣き言で済ませていいのか?
努力だけしていればすべて許される、自分は正しいんだなんて馬鹿だ。
自分が成し遂げたいことは、努力よりもするべきだ。
努力って、人に課せられたものや強制なものにやりがいの理由をもたせるために引っ掛けて正当化する言葉じゃない。
そもそも、その女の子が好きなら好きになってもらえる努力をするべきだ。
好きなら好きで、今しかない。
偶然や相手の行動だけに期待するな。
自分が本心ではないことだけど、これだけがんばったから?周りが評価してくれる?
それが生きがいじゃないだろう。
そんなんで好きな子が振り向いてくれるのか?
そんな考え方は中学生のときに卒業しとけ。
そうじゃないんだ、ただがんばっているからすべてが正当化されるものじゃないんだ。
人生は一度、やり直しは聞かない、記憶も消せない、人の縁も絆も一度限り。
そんな世界で、変なプライドにしがみついて、大切なことを見てみない振りしたくない。
おじさんに「ここには家にいても苦しいだけなので、あまったエネルギーを発散しに来ています」なんていったけど、そうじゃない。
そんなおまけ要素のために通っているんじゃない。
私はほかの場所にはこれほどのエネルギーをもてない。
勇気が出ない。
興味がない。
ちょっとした理由で外に出ない。
買い物だって、いっぱい心を調整してからじゃないとでられない。
でも、私はそこへ決まった時間に決まった服で、決まった言葉を持って自分から向かうんだ。
その場所に行きたいんだ。
好きなんです。
もしそれを禁止して、働くだけの日々になったら、私は目に輝きをなくす。
今の自分が望まない自分になる。
時間の流れ、人の流れ、社会の流れに流されるままの人生になる。
そこにいてはいけないのですか?
そこが大好きな場所ではいけないのですか?
自分が自分らしくいられる場所をやっとみつけられそうなのに、それをなくさせるのですか。
私は他人のために生きてるんじゃない。
私は自分のために生きているんだ。
自分のことは自分で決める。
だからいわれたとおりの人生なんて歩まない。
これは私の頑固で自分の経験からしか見えていない世界だろうと思う。
だから今書いたことがすべて正しいとはいわない。
私にもいいたいことがあることをいいたいだけ。
今日はスポーツジムにいってきました。
いつものえらそうなおじさんと、ちょっと年上のスタッフさんと長話をしました。
そのとき、またいわれてしまいました。
ニートかって。
おじさんに。
「何もしたくないわけじゃない、何かしてみたいことを見つけたい」ということに一定の理解を示してくれましたが、人は自分の人生のみを信じているもの、指南された職業は「自衛隊」。
そのおじさんがそうだったからです。
「アルバイトしなよ」という話題になって、スタッフさんが以前勤めていたのでいってくれた「スポーツヒマラヤ」。
そう、そのスタッフさんに先日も「スポーツジムに来る前はなにしてるの?」と聞かれて、少しあたふたしながら「家事全般」と苦笑いで答えた後でしたので、それならそのスタッフさんにアルバイトないか逆に聞こうと思っていた矢先でした。
そんなことがあって、少しストレスを感じながらも、「まあ所詮私はこんなことをいわれても言い返せない立場か・・とか、先日テレビで見たひきこもりの少年のドキュメントを思い出して、部屋から無理やり連れ出される少年を思い出して、あの子と同じレベルか・・そう思われていてもおかしくないか。」と自分の立場を客観視しては石を投げられても暴言をはかれても言い返せない立場だということを言い聞かせていました。
他人から見たら、私が「何もしたくないわけじゃない」ことも「ふつうの人間とは違う感覚を持っているからふつうに親しめない」ということも特に興味のあることではなく、働かない若者というひとくくりにまとめられてしまうんだなと、元気をなくしました。
こういうことって、自分に作り上げていた自信をなくしてしまいます。
学校であれ、会社であれ、アルバイトであれ、自分の居場所がある人間にとっては、それが自信であり、ゆるぎないプライドを作り上げています。
所属しているという価値観から、他社に平気で自分の意見をぶつけては、放った言葉に責任を持とうとしません。
私は自分の中から自信を持つしかありません。
何にも所属しない、依存していない状態なので、自分でエネルギーを発電するしかない。
話を戻しますが、そんな帰り際に、そのスタッフさんから「スポーツヒマラヤ」で起きた苦難のエピソードを聞かされました。
内容は、危険そうな男性に殺されるかと思うくらいの緊迫した接待をさせられたというもの。
最後は接待が評価されておひねりをもらって終わったらしいです。
しかし、そんなことがおきると聞かされて何も考えない私ではありません。
それが聞かない状態で起こったとしても、私は大丈夫ですが、前もって聞かされて、危険や恐怖があることを知った常態でその現場に赴く私ではありません。
人一倍、恐怖に対しての記憶の残りやすい私です。
その記憶は後になってからより強大な恐怖を私に与えてきます。
そんなことをわかりながら、その現場には行きたくないです。
スタッフさんは「そういう経験もしておきなよ」と笑いながらいっていました。
でも、みんなそういうこといいますよね。
自分が経験したことを他人にも勧める。
それが苦しいことで、それで自分を成長させた大人になるものだと勧める。
誰もが経験することで大人になるもの。
「誰もが?」そうじゃないですよね。
人には人の精神状態がある。
小さい子に怖い映画を見せてばかりいたら、そのことが頭から取れなくなる。
小さい子はまだ現実と架空の判断が難しい年頃だから当たり前ですが、それは小さい子だけではないんです。
努力すればいい結果が必ずあるから、だから今は楽しいことは禁欲して、ひたすら努力しようよ。
好きなことがないならなおさら、興味がなくても何かに努力しようよって。
人生は長いんだから、いろいろやってみようよって、みんな言う。
でも、どれも、ふつうの人に当てた言葉。
どれもそれなりの人に当てた言葉。
今を禁欲して未来のために努力ですか?
じゃあ今を生きる生きがいってなんですか?
努力は必ず報われるなんて誰がわかるんですか?
努力しているうちに夢や希望をなくしてしまったサラリーマンという中年世代はなんですか?
自分を正当化しようとして、努力を推進するその考え方はあなたを満足させるもの。
自分が成し遂げられなかったこと、本当にしたいことをできなかったことをひがんでそれが人間だと押し付けてる。
そして努力の集大成が家族?
それは・・中高年が作り上げた勝手な社会のでき方でしょう。
今しかできないことがある。
今だからできることがある。
努力していたら、禁欲のせいで好きだった女の子が別の男の元にいってしまった。
それは所詮そんな女だったんだ・・なんて男の泣き言で済ませていいのか?
努力だけしていればすべて許される、自分は正しいんだなんて馬鹿だ。
自分が成し遂げたいことは、努力よりもするべきだ。
努力って、人に課せられたものや強制なものにやりがいの理由をもたせるために引っ掛けて正当化する言葉じゃない。
そもそも、その女の子が好きなら好きになってもらえる努力をするべきだ。
好きなら好きで、今しかない。
偶然や相手の行動だけに期待するな。
自分が本心ではないことだけど、これだけがんばったから?周りが評価してくれる?
それが生きがいじゃないだろう。
そんなんで好きな子が振り向いてくれるのか?
そんな考え方は中学生のときに卒業しとけ。
そうじゃないんだ、ただがんばっているからすべてが正当化されるものじゃないんだ。
人生は一度、やり直しは聞かない、記憶も消せない、人の縁も絆も一度限り。
そんな世界で、変なプライドにしがみついて、大切なことを見てみない振りしたくない。
おじさんに「ここには家にいても苦しいだけなので、あまったエネルギーを発散しに来ています」なんていったけど、そうじゃない。
そんなおまけ要素のために通っているんじゃない。
私はほかの場所にはこれほどのエネルギーをもてない。
勇気が出ない。
興味がない。
ちょっとした理由で外に出ない。
買い物だって、いっぱい心を調整してからじゃないとでられない。
でも、私はそこへ決まった時間に決まった服で、決まった言葉を持って自分から向かうんだ。
その場所に行きたいんだ。
好きなんです。
もしそれを禁止して、働くだけの日々になったら、私は目に輝きをなくす。
今の自分が望まない自分になる。
時間の流れ、人の流れ、社会の流れに流されるままの人生になる。
そこにいてはいけないのですか?
そこが大好きな場所ではいけないのですか?
自分が自分らしくいられる場所をやっとみつけられそうなのに、それをなくさせるのですか。
私は他人のために生きてるんじゃない。
私は自分のために生きているんだ。
自分のことは自分で決める。
だからいわれたとおりの人生なんて歩まない。
これは私の頑固で自分の経験からしか見えていない世界だろうと思う。
だから今書いたことがすべて正しいとはいわない。
私にもいいたいことがあることをいいたいだけ。
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