実兄からのメール
2007年6月6日心配して仕事の時間を割いてまでメールくださった。
内容は、悩みがあったら話してごらん。
話しました。
頭ごなしに、思い込みが激しいだけといわれました。
はい、思い込み激しいです。
そのため、過去何度となくストーカーと非難されたことあります。
そのかいあって、ストーカー対策アドバイスができるようになりましたし、極力自分を客観的に見ることに勤めてきました。
今の私にはその影響で感情はほとんど起こりません。
そもそもうちの家系は激情の血が流れています。
それをも克服するために努力してきました。
実兄からわざわざ、胸を貸してやる発言があったから、少し頼りに返事したのに、頭ごなしのほかの大人と同じ答え。
用は社会に出てないくせにすべてをわかった気になるな、ということが書かれていました。
なんというか、立場が違えば、思い込みの中心も違うわけで。
その人の思い込みの中心が、その人の経験の集大成だから、一言ですべてを受け入れろというわけには行かないわけで。
いきなり自分が正しく、違うやつはだめだと批判するしかできないほうが、思い込みの中にいることを認知してないわけで。
自分を常に疑うことができなければ、思い込みを取っ払うことはできません。
疑いすぎれば、自分を信じることはできなくなり、精神不安定になりますが、自分こそ90%以上正しいと思われていては、自分を客観視できません。
思い込みだよと、注意する側も、自分がどこまで確かな存在か、客観視しないとされたほうもただの文句にしか聞こえないです。
こどもをしかる親を見てて思います。
頭ごなしに、違う、やめなさいといっても意味がわからないです。
特に感情的になっているこどもを無理やり収めようとしている親をみていると、思います。
ないているなら、ないているわけを聞いてあげて、それを同情してあげた上で、「でもね」と道理をわかりやすく話してあげたほうが、しっくりくると思います。
伝えたいことのある相手に、まず理解を示して、受け止めてあげた上で、少しずつ段取りを取り、裏表をきっぱり決めてしまうのではなく、自分の今言っていることですら間違ってないか、自問自答を繰り返しながら、相手について適切なアドバイスをすることが、相手にとってすんなりわかりやすいのだと思います。
今回のメールでは、上から見下げる踏んだりけったりの、つまりは同じ目線で見てはいないものだったので、こちらがただ興奮してしまっただけで、残念です。
どちらが正しい、そんな論争をしていてはどっちの価値観がある限り平行線のままです。
真っ向から信じるものの違うもの同士が言い合っても、どちらとも思い込みの中で生きているわけで、それが信じていることですから、今からいきなり宗教を変えなさいといわれているようなものです。
話せばわかる、それが希望です。
しかし、実際は信じているものの近いもの同士が、寄り集まって生きているのです。
恋人だってそれです。
基本的なことがわかりあえるから結婚します。
しかし、実際一緒に生活してみて、基本的なことが違っていたから離婚します。
そこに話せばわかるの要素はありません。
他者の気持ちがわかるとはいっていません。
ただ、現代の人は気持ちがわからないくせに義理ですませてしまっている傾向があります。
私はわかりたい派です。
最初から義理などいりません。
好意を寄せた人を知りたいと思います。
興味を持てた人のことを知りたいと思います。
クラスに苦手なタイプの男子がいました。
私はどうにか、仲良くなれないか、あいさつを自分からしていました。
でも実際彼の態度は私の美学には反するものばかりで、心から笑顔になって話せる人ではありません。
そこでの挨拶は、ただ、気まずい間合いを少しでもなくそうと義理であいさつしただけです。
最終的になじみませんでした。
人間は無意識のうちに好きになれた人間なら、こんな頭で考えた行動をとらなくても、自然とお近づきになれるものです。
でも最近の人間は、自分の経験をものさしに疑い深く、心を閉ざしている人ばかりです。
そんな人間ばかりだからよけいに警戒深くなりつつあります。
他者の気持ちをわかるわからないにかかわらず、調子を合わせて話せばなんとかなるという義理思想で少しでも自分へのダメージを軽減しようとしているから、もともと熱血系の私は息苦しいのです。
他者の気持ちをわかろうとするときに、防衛ラインをひかれてしまう。
私は別に説教や押し付けをしようとはしていないのに。
少し前にテレビで見ました。
下田歌劇さんがおっしゃっていました。
最近の人を見ていると、小学校低学年のときまでは、自分に素直に喜怒哀楽を表現するのに、年を重ねるたびに、どんなことでも臆病になり他人を傷つけないために自分を傷つけないために他人には腹のうちを見せなくなると。
他人には表の顔を、気持ちをはっきり表現できなくなると。
その最高点が大人です。
自信満々ですが、自分の経験こそがすべての、うそをついて隠し事をしていれば最終的に自分が傷つくことはないという結晶体ですが。
もっとあつかましいほどまっすぐで、いつも自分を疑うことを忘れずに奮闘しながら生きている師匠と思える人間と出会ってみたいものです。
内容は、悩みがあったら話してごらん。
話しました。
頭ごなしに、思い込みが激しいだけといわれました。
はい、思い込み激しいです。
そのため、過去何度となくストーカーと非難されたことあります。
そのかいあって、ストーカー対策アドバイスができるようになりましたし、極力自分を客観的に見ることに勤めてきました。
今の私にはその影響で感情はほとんど起こりません。
そもそもうちの家系は激情の血が流れています。
それをも克服するために努力してきました。
実兄からわざわざ、胸を貸してやる発言があったから、少し頼りに返事したのに、頭ごなしのほかの大人と同じ答え。
用は社会に出てないくせにすべてをわかった気になるな、ということが書かれていました。
なんというか、立場が違えば、思い込みの中心も違うわけで。
その人の思い込みの中心が、その人の経験の集大成だから、一言ですべてを受け入れろというわけには行かないわけで。
いきなり自分が正しく、違うやつはだめだと批判するしかできないほうが、思い込みの中にいることを認知してないわけで。
自分を常に疑うことができなければ、思い込みを取っ払うことはできません。
疑いすぎれば、自分を信じることはできなくなり、精神不安定になりますが、自分こそ90%以上正しいと思われていては、自分を客観視できません。
思い込みだよと、注意する側も、自分がどこまで確かな存在か、客観視しないとされたほうもただの文句にしか聞こえないです。
こどもをしかる親を見てて思います。
頭ごなしに、違う、やめなさいといっても意味がわからないです。
特に感情的になっているこどもを無理やり収めようとしている親をみていると、思います。
ないているなら、ないているわけを聞いてあげて、それを同情してあげた上で、「でもね」と道理をわかりやすく話してあげたほうが、しっくりくると思います。
伝えたいことのある相手に、まず理解を示して、受け止めてあげた上で、少しずつ段取りを取り、裏表をきっぱり決めてしまうのではなく、自分の今言っていることですら間違ってないか、自問自答を繰り返しながら、相手について適切なアドバイスをすることが、相手にとってすんなりわかりやすいのだと思います。
今回のメールでは、上から見下げる踏んだりけったりの、つまりは同じ目線で見てはいないものだったので、こちらがただ興奮してしまっただけで、残念です。
どちらが正しい、そんな論争をしていてはどっちの価値観がある限り平行線のままです。
真っ向から信じるものの違うもの同士が言い合っても、どちらとも思い込みの中で生きているわけで、それが信じていることですから、今からいきなり宗教を変えなさいといわれているようなものです。
話せばわかる、それが希望です。
しかし、実際は信じているものの近いもの同士が、寄り集まって生きているのです。
恋人だってそれです。
基本的なことがわかりあえるから結婚します。
しかし、実際一緒に生活してみて、基本的なことが違っていたから離婚します。
そこに話せばわかるの要素はありません。
他者の気持ちがわかるとはいっていません。
ただ、現代の人は気持ちがわからないくせに義理ですませてしまっている傾向があります。
私はわかりたい派です。
最初から義理などいりません。
好意を寄せた人を知りたいと思います。
興味を持てた人のことを知りたいと思います。
クラスに苦手なタイプの男子がいました。
私はどうにか、仲良くなれないか、あいさつを自分からしていました。
でも実際彼の態度は私の美学には反するものばかりで、心から笑顔になって話せる人ではありません。
そこでの挨拶は、ただ、気まずい間合いを少しでもなくそうと義理であいさつしただけです。
最終的になじみませんでした。
人間は無意識のうちに好きになれた人間なら、こんな頭で考えた行動をとらなくても、自然とお近づきになれるものです。
でも最近の人間は、自分の経験をものさしに疑い深く、心を閉ざしている人ばかりです。
そんな人間ばかりだからよけいに警戒深くなりつつあります。
他者の気持ちをわかるわからないにかかわらず、調子を合わせて話せばなんとかなるという義理思想で少しでも自分へのダメージを軽減しようとしているから、もともと熱血系の私は息苦しいのです。
他者の気持ちをわかろうとするときに、防衛ラインをひかれてしまう。
私は別に説教や押し付けをしようとはしていないのに。
少し前にテレビで見ました。
下田歌劇さんがおっしゃっていました。
最近の人を見ていると、小学校低学年のときまでは、自分に素直に喜怒哀楽を表現するのに、年を重ねるたびに、どんなことでも臆病になり他人を傷つけないために自分を傷つけないために他人には腹のうちを見せなくなると。
他人には表の顔を、気持ちをはっきり表現できなくなると。
その最高点が大人です。
自信満々ですが、自分の経験こそがすべての、うそをついて隠し事をしていれば最終的に自分が傷つくことはないという結晶体ですが。
もっとあつかましいほどまっすぐで、いつも自分を疑うことを忘れずに奮闘しながら生きている師匠と思える人間と出会ってみたいものです。
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